西郷隆盛と延岡-最後の舞台をたどる

延岡に残る“決断の記憶”をめぐる。

西郷隆盛が「軍解散」という大きな決断を下した延岡。
その舞台となった場所には、今も当時の面影と想いが静かに残されています。
歴史をたどりながら、西郷隆盛の歩みを感じてみませんか。


西南戦争

武士の時代が終わった、日本最後の戦い。


西南戦争は、1877年に九州で起こった日本最後の内戦です。明治政府の近代化政策により、武士の身分や特権が失われたことに不満を抱いた士族たちが、西郷隆盛を中心に蜂起しました。

戦いは熊本から九州各地へと広がり、政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が続きます。やがて物量で勝る政府軍が優勢となり、戦局は大きく動いていきました。

この戦いは、日本が武士の時代から近代国家へと移り変わる大きな転換点となりました。

和田越えの決戦

延岡で迎えた、最後の決戦。


1877年2月22日、熊本で戦いの火ぶたが切られました。なかでも有名な「田原坂の戦い」は3月4日から17日間にわたって続き、薩軍と政府軍あわせて約4,000人の戦死者を出す激戦となりました。その後、熊本を退いた薩摩軍は小林、宮崎、佐土原、高鍋、美々津と宮崎県内を北上し、8月2日に延岡へと入ります。

延岡に進出した薩摩軍は、北上を続ける政府軍と対峙し、8月15日、和田越において激突します。西郷隆盛率いる薩摩軍約3,000人に対し、山県有朋率いる政府軍は約5万人。圧倒的な兵力差の中で激しい戦いが繰り広げられましたが、薩摩軍は次第に押し込まれ、北川方面へと退きます。

この戦いは、西南戦争の行方を決定づける重要な局面となりました。

薩摩軍の解散

すべてを手放した、最後の決断。


和田越の決戦で敗れた西郷隆盛は、北川町へと退き、可愛岳ふもとの児玉熊四郎邸に宿陣します。わずかに残った兵とともに再起を図ることは困難な状況…西郷はこの地で今後の行動を決める最後の軍議を開き、薩摩軍の解散を決断しました。

西郷は明治天皇から賜った陸軍大将の軍服や重要書類を焼却し、自ら退路を断つ覚悟を示します。その後、わずかな兵とともに可愛岳を越える「可愛岳突囲」を決行し、鹿児島を目指しました。

現在、この旧児玉熊四郎邸は資料館として保存されており、館内では西郷隆盛ゆかりの遺品や戦争資料、最後の軍議の様子を再現した展示などを通して、当時の緊迫した空気を伝えています。

西郷隆盛を救った、時空を超えた出逢い

ニニギノミコト御陵墓参考地


この児玉熊四郎邸のすぐ近くに位置するのが、ニニギノミコト御陵墓参考地(可愛山陵)です。日本神話に登場する天孫ニニギノミコトの終焉の地として伝えられ、宮内庁により御陵墓参考地として管理されています。

西郷隆盛がこの地に宿陣した背景には、この場所が神話に由来する特別な場所であることが関係しているともいわれています。天皇家の祖とされる存在の墓域とされるこの地に対し、政府軍が激しい攻撃を加えることは難しいと考えられており、西郷にとっては一時的な安息の地でもありました。

西郷隆盛が何とか鹿児島まで帰り着けたのは、この天孫ニニギノミコトとの「時空を超えた出逢い」がもたらした奇跡にほかなりません。

ひ孫「西郷隆夫さん」が語る


親愛の意味を込めて「西郷さん」と呼ばれている曾祖父「西郷隆盛」の生き方や人となりなど、自分が一番尊敬する父親から毎日のように話を聞かされていました。「敬天愛人」を好んで使っていた西郷さんは、多くの人から愛され慕われていましたが、その中でも西南戦争の最後の決戦の地となった延岡では、賊軍となった西郷さんをはじめ、薩摩軍に対して延岡隊やそこに住む人たちにどれだけ慕われて、助けられたか、そのおかげで鹿児島に帰ることができたのだと考えています。

 また、延岡は西郷隆盛の長子である西郷菊次郎(後の第二代京都市長)が西南戦争で負傷した右脚の療養をし、父子が最後の別れをした地でもあります。実際に延岡に来ていただき、数々のドラマ、生の歴史を感じてください。